卒業式の「君が代」斉唱で起立しなかったーそのことを理由に定年後の再雇用を拒否されたのは不当だとして、都立高校元教諭(64)が東京都に損害賠償などを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁判所第2法廷(須藤正彦裁判長)は、起立や斉唱を命じた校長の職務命令を「合憲」と判断し、元教諭側の上告を棄却した。5月31日の新聞報道である。 最高裁の元教諭の上告棄却の決定は不当と言わざるをえないが、判決報道を読んで思ったことがある。
「起立・斉唱命令」について、当然のことだが、それが「歴史観や世界観に由来する行動との相違を生じさせる点で」「憲法が保障する思想と良心の自由を間接的に制約する面がある」としている点である。間接にせよ「制約」する面があるとするならば、その制約が「許容」されるのは、いかなる限りにおいてなのか。その「基準」はなんであるのか、それはいかなる正当性をもつのかが問題である。それは、「制約」する「必要性と合理性の有無」だということらしい。そして、最高裁は卒業式や入学式については、教職員が「起立斉唱命令」によって「思想と良心の自由」が「間接的に制約」を受けるとしても、それは「必要性と合理性」の範囲のうちと判断したわけだ。いうところの「必要性、合理性」の定義があいまいだという識者の批評もあったが、「卒業式や入学式」という学校行事の中でも儀式性が強調される「行事」の場面文脈の評価と結びついて判断されているのだろう。一方、「卒業式は最後の授業」ともいわれ、そこに「強制」はありえないという見解がある。今回の最高裁の判断は、授業を越える「儀式性」が、教育の「自由性」を乗りこえてしまったのであろうか。「判決」には「教育は強制ではなく自由闊達に行われるのが望ましい」との補足意見が付いた。
「儀式」だから、ある程度の「強制」が正当化されるのか。そもそも「儀式」とは何か、を思う。
「入学式」も「卒業式」も、子どもたちにとって晴れがましい場である。ある社会的承認をうる機会である。学校に入学することにおいて、あるいは、卒業において、学校を支える社会、あるいは国家が意識させられることが多い。むしろ、そのような場(方法)として儀式は仕組まれてきた古い歴史がある。戦前の天皇制の「儀式」を思う。ただ、国家といっても、立憲君主国家もあれば、天皇制絶対主義国国家、主権在民の民主主義国家、あるいは、社会主義国家、軍事独裁国家もある。日本は象徴天皇制の民主主義国家と言うべきだろうか。憲法・教育基本法など法体制のもとで学校制度が存立する。その際、教育の制度においても主権は国民の側にあることが強調されなくてはならない。教育はお上から授かるものという根深い意識との闘いが必要である。「入学」にしてもまた「卒業」にしても、国民一人ひとりの社会的自立のステップとしての位置づけが不可欠である。そのそれは、無数の主役がおり無数のドラマがある。“式”はそのことにふさわしく組まれなくてはならない。その一人一人が認められる場でなくてはならないだろう。少なくとも一色のトーンの下に統合することはできない。
問題は、現代の日本国家の在り方である。どのように利害の対立があったとしてもそれを越える共同の必然性がいかにあるのかという問題である。
今回の大災害の中で、共産党を含めて国難というとらえ方(言葉)が広がった。「がんばろう日本」の声が上がる。災害被災は、地域共同体の存在基盤を根こそぎ奪い去った。自然と人間との関係そのものを破壊した。一つの社会災害だ。原発災害はさらに社会の自然的基礎を汚染し、空に海に、地球的規模で汚染の広がりがある。世界各地の人々が、いろいろな思惑を含めてだが、フクシマの成り行きに固唾をのんで注目するのも当然である。日本の原発「安全神話」の破綻である。積年の政権党の責任は大きい。原発災害は発生的にみれはまさに東電独占企業体と政権党が結びつき国策として進めてきた原発政策そのものだ。予想され、必要とされた対策とることに目をつぶってきた結果である。批判者を排除し、言論を許さない原発ファシズムの様相もあった。さかのぼれは新潟原発をいち早く実現した対米従属・腐敗の田中角栄の日本列島改造(「国土開発」=地域破壊)路線そのものがそれだった。今回の災害は単に人災という域を越えて企業災害、あるいは政治的国家的災害といってよい。そうした社会的本質を持つ。そこから目をそらしてはならない。過去の誤りへの自己批判なくして国難を乗りこえる人知の総結集は不可能である。
今求められるのは被災した地域住民の生活そのものの復活だ。その利害こそ第一の立場だ。そこにおいて人知が尽くされることだ。危機を乗りこえる民主主義体制(国民的総力を結集する)が不可欠だ。その必要性こそが「がんばろう日本」の基盤かもしれない。崩壊した地域共同体とその自治性を、国家と国民の支えにおいて、復興再建させることだろう。正確な情報が徹底的に公開されなくてはならない。
さまざまな歴史的過程がいま進んでいる。その中からあたらしい国民性の形成が進むのであろうか。危うさを持ちながら、国民共同の支えの下で地域の自立と共同の関係をつくりだす連帯の現実性はかつてなく高まっている。それはあたらしい民主主義の基盤となるだろうか。
公務員の、教育公務員を含め、全体の奉仕者としての在り方は危機の中でこそ試される。それは形だけつくろう精神からは生まれない。もとより、命令と強制からは生まれるものでもない。憲法が保障する思想と良心の自由の制約が行政的権力的力として行われることが正当化されるなかで、押しとどめることができない自由を求める力が面従腹背の形でした生き延びることができないとしたら、これほど非教育的で、卑しいことはない。
今回の判決の不当さは、そこにもある。
(渡辺顕治)






