小川 修一(民主教育研究所・所員)
秋晴れの青空が広がった10月3日に雄勝中学校を、4日に雄勝小学校 (授業参観) を訪問する機会を持った。
石巻市雄勝地区は、今回の「3.11東日本大震災」での津波による大きな犠牲を払った、かの「大川小学校」のある大川地区と隣接した雄勝湾の奥まった行き止まり的な僅かばかりの平坦地にある。つまり、一番の奥まった地域だからこそ、甚大な津波被害を被ってしまったのであつた。ここには、住宅や商店の他に、病院・公民館・雄勝硯伝統産業会館・市役所支所や小・中学校が雄勝湾に面して建っていた。中学校区内の小・中学校の全てを失ったのは、この雄勝地域のみだそうだ。
身体ひとつで学校においで!
2011年3月11日は、雄勝中学校の卒業式が挙行された。だから、あの日の午後2時46分には、校内には生徒は一人もいなかった。あのとき、生徒は、地域の方々と手を取り合って自主的に避難したのであったが、幸いにも1人の犠牲者を出なかった。が、教職員たちは、卒業式終了直後の服装のまま、車で逃げ、近くの山に駆け上って難を免れることができたそうだ。寒さに震えながら、山中で一晩を過ごさざるを得なかったという。
雄勝地域の住民の方々が避難された中学校にまず、臨時の職員室を開設し、77名の生徒全員が無事と判ったのは、3月19日の19時6分だったという。それからは、1人ひとりの職員のつてを手がかりに全国に支援要請を発信し、衣類の確保から始まった。そして、学用品へと。しかし、それ以上に「あれは、ないだろう!」と、驚愕させられたのはパンと牛乳のみの給食だった。その対策をも、学校で担わざるを得なかった。
全生徒が、家を失い、生活の基盤の全てを失った生徒ばかりで、避難所からの登校だった。だから、「身体ひとつで学校においで。」食べる物も着る物も学校で何とかしてあげるよ。」と呼びかけ、登校を促した。足りない物は、支援を訴えよう。支援に甘えよう。と6月までは支援に頼ってきた。
また、チョーク1本ない間借りでの学校生活の再開も、自分たちで間借り先を見つけ、依頼するところから始まった。「自力」しか頼れるものはなかった。だから、必然的に「自立」してしまった。行政当局からの支援や指示も皆無だった。ここには「平成の大合併」で、石巻市に編入された雄勝町の“吸収された”側の「埋没」させられてしまった実態も無視できない。
「自主」 「健康」 「明朗」 ではなく
「たくましく 生きる」 に
「ここには、身体ひとつで生き延びてきた子どもたちがいるのです」「内面的な痛みや傷を背負っている子どもたちばかりです」「でも、健気に生きていこうとしているのです」「だから、私たち教職員は、子どもたちがかわいくて仕方ないんです」と語ってくださった中学校長だった。
とにかく、雄勝地区に子どもたちを戻すことが、雄勝の復興と街づくりつながる。地域の住民から信頼され、愛されるような学校の復興と地域の復興は一体だ。だから、(避難先の間借りの学校に) 1時間かかっても通ってきたい学校・再び雄勝の地域に再建されるであろう学校に戻りたい、を目指すことが、今の大きな課題でもある。とも語ってくださった。それには、次世代の担い手である子どもを育てるために、「雄勝の子どもと学校の在り方を考える会」設立を企てた校長さんでもあった。
だからこそ、それまでの「自立」「健康」「明朗」の校訓を「たくましく、生きる」に切り替え、困難な情況にも拘らず、おかれている生活環境をハンディとせず、負けないよ! 生きぬく力を集団的に育てあげることが大切だと。と手づくりの学校教育を地域の住民と共に開始した様子を篤く語っていただいた。
雄勝の地域に根づいた復興と夢を切り拓く
学びを創り、育てる
雄勝地区は、全国の90%もの硯の生産を誇る伝統的工芸品をもっている。雄勝復興には、かき・ほたて等の養殖を中心とした漁業と雄勝硯の復興は欠かせない。この復興に向けた動きも始まっている。「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」も結成され、その動向も子どもたちにも伝わりつつある。
5・6年生 (16名) 合同の総合学習「雄勝硯の復興と雄勝のまちづくりついて考えよう」を参観させていただいた。講師は硯づくり職人で「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」副会長の高橋頼雄さんだった。学習の目標は、
*雄勝硯の復興に取り組んでいる職人さんの思いを知り、雄勝硯の現在の問題点と将来について考える。
*雄勝の復興を目指して活動している「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」の人びとの思いとそのまちづくりプランを学ぶとともに、自分たちで震災復興まちづくりプランを考えたりして、雄勝の復興に対して自分の考えをもつ。
であった。
硯の生産量は、年々減少している。「書」文化の衰退もあるが、多くはセラミック製の硯にその座を奪われてしまったからだ。また、中国産の「輸入」硯の存在も大きい。したがって、硯職人も最盛期の十分の一にまで減少してしまった。そこで、活路を見い出すために「石皿」の生産と若手職人の育成を始めた。
そんな矢先での「3.11東日本大震災」との遭遇となってしまった。硯づくりの機械・道具・施設等の他、材料となる石材の全てを失ってしまった。しかし、ボランティアの方々と残された材料や道具を拾い集め、簡単な道具を再製し、いま、すぐ、生産できる石皿づくりと傷ついた硯に手を加えての再出荷を手がかりに復興を目ざしている取り組みを、子どもたちにも理解できるように語っていただいた。
硯づくりの「ゼロ」からのスタートは、硯職人と子どもたちの想いと被災体験とが重ね合わさっていたため、実感を伴って受け止めていた。地域の大人も子どもも共通の体験と想い・願いを共有し、復興の主体者へと育っていくための学び合いを深めていった授業だった。
子ども版「地域復興まちづくりプラン」づくり活動では、これまでの雄勝地域の課題や問題点を出し合いつつ、これからの“夢のある”雄勝のまちづくりプランを子どもらしい想いや願いを生かして取り組んでいた。実に意欲的な話し合い活動が注目された。こんな子どもたちの学び合いから、大人と共に地域の復興を担い、未来の雄勝の町を創り、育てる主体者が育ってくれることを祈りつつ、授業を参観し終えた。






